「ゆうぐれ」

  夏が、終わりに近づいていた。
 夕暮れ色に、空が染まる。夜が次第に長くなる。
 夏がこの世界を手放していく。
 そしてまた来ることを約束して。
 夏が来るたびに繰り返される想いは、この季節に必ず終わる。
 なぜなら、叶うことがないから。
 夏は必ず訪れるけれど、必ず去ってしまう。
 太一にとって『彼』はそんな存在だった。

 「八神ー」
  クラスメイトに呼び止められ、八神太一は振り返った。
 辺りは暗くなりはじめている。部活は終わったばかりだ。
 サッカー部のロゴの入ったエナメルバッグを肩にかけたまま、
 太一は疲れの混じった声で応えた。
 「なんだ、菅谷か。久しぶりじゃん。」
 菅谷と呼ばれた短髪の真面目な野球部員は、薄汚れたユニフォームの
 裾で汗を拭きながら、くったくのない顔で笑う。
 「久しぶりってェ、お前いつもグラウンドの隣同士で練習してんのに
  よく言うよ!」
 「あはは、確かにな。」
 「夏休み、ずっと練習か?」
 「知ってんだろうがよ。」
 「あぁ、知ってる!」
 菅谷はひととおりケタケタと笑うと、ピタッと太一に向き直って、
 「ちょっと待っててくれ。」
 というと、駆け足でロッカールームに向かっていった。
  取り残された太一は、人なつこい友人の異様なテンションにしばし
 呆けると、柱にもたれて彼を待った。
 まだ、蝉の声がうるさい。
 夏の終わりを、蝉たちは盛大な合唱で見送るのだ。
 太一にとっては、数年前の夏からこの合唱は鎮魂歌のように聞こえていた。
 自分の、夏ごとに生まれ消えていく『想い』を弔う歌。
 太一はしばらく、遠くの空を見つめながらその合唱に耳を傾けた。
 夕暮れの空に、飛行機が一機、現れて消えていった。

 「すまん、待たせたな。」
 菅谷がパタパタと走って太一のところへ戻ってきた。
 まだユニフォーム姿のままだ。急いで戻ってきたらしい。
 肩で息をつく菅谷に、太一は言う。
 「いや、別に急いでねーから平気だぜ。」
 「そうか。」
 菅谷は太一の顔を見て安心したように笑みを漏らすと、
 ユニフォームのポケットから小さな2枚の紙切れを取り出した。
 「なんだこれ?」
 「石田に渡しといてくれ。」
 それは野球のチケットだった。一週間後の日付の、ナイターの。
 少しだけ、すーっとした灰色の感情が、太一の心に入り込む。
 「なんで俺が。」
 「だって仲良いだろ?家も近いし。」
 「お前だって同じクラスだろ。」
 「いや、まだ休み中だし。頼んだぞ!」
 半ば無理矢理、菅谷は太一の手にそのチケットを握らせる。
 その飄々とした態度に少し怪訝な顔を向けながらも、
 仕方なくチケットを受け取ると、せっかちにもすでに去ろうとしている
 菅谷の後ろ姿に言葉を投げた。
 「おい、なんでこれ、お前が?」
 「石田に頼まれたんだよ、チケット取ってくれってさ。俺、
  このチームのファンクラブ入ってるから取りやすくって。」
 「ふぅん。」
 (ヤマトの奴、こんなの見たがってたのか。)
 「デートじゃん?女だよ、オンナ。」
 菅谷は、イヒヒッと笑うとぴょいと体を翻し、足早に去っていった。
 太一はしばらくその場で手渡された2枚の紙切れを眺めていたが、
 すぐにそれをポケットにつっこみ、家路についた。
 紙切れはポケットで、クシャリと音を立てた。

  ポツポツと、夕暮れの街を歩く。
 不完全な工業地帯を、夕日の赤が染めていた。
 海の向こうは、開発地区で閉ざされて見えない。
 それでも閉ざされた海の向こうの世界を、太一は見ていた。
 小さな頃から、あの冒険のときでさえ、自分は海の向こうに想いを
 馳せた。しかし今、中3にもなっているのに、海のこちら側の
 世界さえ、太一はよくわからないと思った。自分の足元でさえ。
 そして自分の、親友のことさえ。
  歩くたびに、ポケットの紙切れがカサカサ音を立てる。
 その音を聞きながら太一は、自分の親友のことを思った。
 あんなに時を共にし、戦いを共にし、喜びも絶望も共に分かち合った。
 そのころと、距離自体は変わっていない。心の距離も、おそらく
 変わってはいないのだ。
 それでも太一は、今のヤマトをわからないと思った。
 わからないと思うのは、わかりたい故のことで。
 どんなに些細な「わからないこと」に対しても、太一はいら立ちを
 感じた。
 なぜなら、すべてを知っていたかったから。
 そう。太一は気づいていたのだ。
 自分の、ヤマトに対する感情がただの友情ではないことに。
 それが、恋と名のつくものだということに。
 しかし想いを伝えることはなかった。
 伝えてしまったら、すべてが壊れてしまう気がしていたからだ。
 そして去年、ヤマトが初めて女性と付き合ったと知ったときも、
 ヤマトが幸せならと身を引いた。
 けれど今になって太一は、自分の中に入り込んできている
 灰色の感情の正体を、本能的に知りつつあった。
 『ヤマトが幸せなら』
 その言葉が、太一の心の中で渦をまく。
 本当によかったのか?それで。

 「たーいち!」
  声ですぐにわかる。
 冒険の仲間、幼馴染、そしてヤマトを奪った相手。
 「空。」
 「今、帰り?一緒に帰ろ。」
 空は、つつつ、と太一の横に近づくと、その顔を覗き込んだ。
 「どうしたの?夕焼けなんて見てたの?」
 「あぁ。ちょっとな。」
 「そんな柄だったっけ?」
 「お前が知らないだけだよ。」
 太一は空に向けた視線を再び夕焼けに戻した。
 空はその太一の横顔を、ただ黙って見ていた。
 カラスの鳴き声が聞こえた。
 蝉の声は依然としてうるさい。
 歩調はだんだんと速度を落とす。
 心の中の灰色が、じわじわと輪郭をぼかして広がり始めた。
 「・・・つーかお前、こんなことしてていいのかよ?」
 「何が?」
 「俺と。一緒に帰ったりとか。」
 「どうして?友達でしょ?」
 「友達だけど。男だよ。」
 「太一は男じゃないわよ。」
 「男だろ?」
 「太一は、太一よ。」
 「・・・・・・。」
 「何?」
 「・・・そうじゃなくてさ。」
 「何なのよ。」
 「フツウは彼氏と帰るだろ。」
 「・・・彼氏、ねぇ。」
 蜜柑色の髪をさらりと耳にかけ、彼女は視線を空に投げた。
 その瞳の奥に秘められた憂いを、太一は見逃さない。
 「なんかあったのか?」
 「ないわよ。何も。」
 「ふうん。」
 「ないから、困ってるのよ。」
 「困ってる?」
 「そう。」
 「ヤマトと、何もないから?」
 「そう。」
 「嘘つけ。キスくらいしたんだろ?」
 「・・・したわ。」
 淡々とした会話の中に、一石投じたような衝撃が走る。
 もっともそれを感じたのは太一だけであっただろうけれど。
 むずがゆい。心の底のきしむ音に気づかぬフリをして、
 淡々とした会話のリズムをくずさぬよう、太一はすぐに返答する。
 「当然か。何、それ以上のことは?」
 「ないの。キスも1回だけ。私から。」
 空の声色は、淡白だった。セリフを読むように。空は続けた。
 「別にそういうことしたくて付き合ったわけじゃないけど、
  しないことが気にならないかっていうと嘘なのよね。
  ヤマトが、自分の気持ちをそういう行為で表す人じゃないって
  いうことくらいわかってるけど、それでも形が欲しいのよ。
  ちょっと前まではね・・・向こうもデートに誘ってくれたりしたけど
  今は全部私から。私だけが頑張ってるのよ。それって不公平じゃない?」
 空は淡白な声色のままそこまで捲くし立てると、今度は太一の目を見て、
 太一の顔色を伺うような顔で言った。
 「だから、別れたい?って、私聞いたのよ。」
 ドキリとした。心が波打つのがわかった。
 心は正直な反応を示す。心拍数があがるのを知った。
 上ずる声を、抑えなければ。ばれないようにしなければ。
 『別れればいいのに』
 禁断のこの一言が胸に浮かんだのが、ばれないように。
 「・・・それで、ヤマトはなんて?」
 「うん。『べつに別れたくはない』って。」
 「・・・・・・んだよ、惚気か。」
 「違うわよ。だって、その一言しか言わないのよ。」
 「つまり?」
 「別れたくはないけど、私のこと好きだとは言わないの。」
 「・・・そういう奴じゃん。わかってやれよ。」
 「うーん、でも、私のこと欲しがってないのは確実だと思うの。」
 「なんで?」
 そういうと空は立ち止まり、歩き続ける太一との距離が2歩ほど広がると、
 かなしそうな笑みを浮かべて、小さく言った。
 「あの人は、いつも寂しい人だから。」

  太一は、一人歩を刻みながら考えていた。
 もう、ヤマトの住むマンションは目前だ。
 空は母との約束があるからと、途中でゆりかもめの駅に消えた。
 これからヤマトに会うのだから一緒に行けばいいと薦めたが、
 空はただ一言、「今はあんまり会いたくないの。」と拒んだ。
 そして別れ際に、つぶやくように一言残していった。
 「私たち、冬まではもたないと思う。」と。
 それでも太一は、ヤマトが空をつなぎとめておきたいのは間違いないと
 思っていた。ヤマトは、けして言葉の足りるタイプではない。
 口の上手いタイプではない。それでいて、寂しがりやで、本当は
 ひとりになるのを誰よりも恐れているのだと、太一は知っていた。
  勝てない。ただそう思った。
 ヤマトの幸せは、空の愛情の中にある。
 ヤマトは空を失えば、少なからず不幸になることだろう。
 そこに自分の入る余地はないのだ。
 だって、自分はヤマトに、何をしてやれるというのだろう。
 自分の中で育っているこの灰色の気持ちは、明らかにヤマトを
 発信源としている。つまり自分のヤマトに対する気持ちは、
 まっさらな白とか、ほんのり淡いピンクとか、そういう優しい
 感情とは無縁なのだ。
 ずっと、信じたかった。
 自分のヤマトに対する感情は純粋で綺麗でひたむきなものだと。
 だけどそうではないことを認めざるを得なかった。
 年を経るごとに、夏を繰り返すごとに、太一の気持ちは確実に彩を
 なくしていった。
 特に空と付き合い始めてからの変化は著しく、空との関係の噂話を
 小耳にはさむたび、感情が凍りついていくのがわかった。
 卑屈さ、妬ましさ、狂気。
 単なる友情が恋情に変わり、そこにそれらの感情が加わることで、
 その思いは、にごった汚いものへと変化していく。
 そこに残るのは、「ヤマトが欲しい」。ただその一言だけ。
 そう思うと、だんだんと自分が基礎にしていた「ヤマトが幸せなら」
 という考え方が崩壊していくのがわかった。
 しかもその幸せは、今まさに壊れる道をたどっているのであり。
 もしそれが本当に壊れるというのであれば。
 チャンスは自分にも回ってくるのかもしれない、という希望もありつつ。
 けれどそんなことはただの妄想であるに違いなく。
 どんなカップルも別れそうな道など一度は通るのに違いなく。
 ぬか喜びになりそうなその気持ちを押し込め、太一はヤマトの家の
 インターホンを押した。
 「はい。あぁ、太一か。今出る。」
 愛おしいその声は、こんな恋情に気づくこともなさそうだ。

 「で、なんか用なのか?」
  ヤマトは、興味のなさそうな声でそう言うと太一の前に麦茶の入ったグラスを
 置いた。グラスがコトリと音を立て、中の氷がカランと鳴る。
 透明なグラスから離れるヤマトの手の繊細さに、太一はまず目を奪われた。
 華奢で、男のものとは思えないほどすらりと長くのびた指。
 節々もごつくなく、指の先までなめらかにのびる美しい曲線。
 その繊細さに、透き通るような白。
 それが涼しげな透明のグラスからすっと離れるさまは、息を呑むほど美しかった。
 数秒、太一はその指先を見つめていたが、ヤマトが不思議な顔をする直前に
 顔をあげ、何事もなかったかのように微笑んだ。
 「いや、さっき菅谷からこれ預かったんだよ。お前に渡してくれってさ。」
 「あぁ、あれか。」
 疑問に染まりそうだった青の瞳は、安堵の色に移行した。
 そのことを視認した太一は、一瞬口元に不適な笑みを浮かべる。
 ――ヤマトは、自分がいつもどおりでいることに、安心している。
 それはヤマトが、自分を信頼していることの何よりの証拠だった。
 そのことが、太一にはおかしくて仕方なかった。
 自分は、こんな感情を抱いているというのに。
 チケット云々で会話を交わしたであろう菅谷に対してさえ嫉妬心を覚える、
 こんな自分を知らずに安堵しているヤマトの様子は、滑稽なほどで。
 「しかし、お前が菅谷と仲がいいなんて知らなかったぜ。」
 「あぁ…同じクラスだし、席が近いからな。野球の話で少し盛り上がってさ。
  あいつ俺のこと、そういうの好きだと思ってなかったみたいで。
  なんか意外だって言われた。」
 「へー。そっか…そんなに意外でもないけどな?」
 「まぁな。でも、今じゃバンドの方が印象強いのかな。俺と野球で
  イメージ結びつくのは、お前くらいのもんだぜ。」
 「そうか?俺だけ?ほんとに?」
 「あぁ。お前だけ。」
 不覚にも、限定されるとときめいてしまう。
 そんな自らの胸のうちを、自分で制した。
 ヤマトにとって太一は、間違いなく特別な『親友』であることに間違いない。
 親友は親友でそれ以上の何者でもないはずなのに、自分だけといわれると、
 高鳴る何かがあることを太一は確かに感じていた。
 でも。
 どうせそんなことは幻想なのだから。
 「いや、たぶん、」
 皮肉を含めつつ、でも気づかれないように。
 「空もそうだと思うぜ。」
 それだけ言うのがやっとだ。気づかれない皮肉は、せめてもの抵抗。
 けれどヤマトの返答は、あまりさえない調子だった。
 「空…か。」
 「なんだよ?自分の彼女だろ?」
 「あぁ。そうだけど。」
 「なら、特別の枠に入れてやれよ。」
 「あぁ…もちろん、特別だよ。」
 言う必要もないかのような太一の指摘に、当たり前なヤマトの返事。
 向き合って、まっすぐに視線がぶつかりあった。
 太一はまっすぐにヤマトの目をみた。
 それがどれほどの時間であったか。
 ほんの数瞬のできごとであったに違いない。
 そのほんの数瞬の間に、ヤマトの青は困惑の色を帯び、太一をさけるように
 視線を切って俯いた。前髪をかきあげて、こう言った。
 「…よく、わからないんだ。」
 「…何が?」
 「…空の、気持ちが。」
 それはいったいどういう意味合いを持つのか、太一にはしばし理解できなかった。
 しかしヤマトは、俯いた目を宙に泳がせながら、ぼんやりと話し始めた。
 「空が…ときどき、別れたいかって俺に聞くんだ。
  俺は、別にそんな素振り見せたつもりはないし…全然空のことだって
  嫌いなんかじゃぁないんだ。だから、何が空にそんなことを言わせるのか、
  俺にはわからなくて…」
 本気で言っているのか。この阿呆は。
 と、太一は思わざるをえなかった。そして一言、切り返す。
 「お前、空に好きって言ってやったこと、あんの?」
 「な…っ」
 俯いた頬が瞬時にピンクに染まり、蒼の瞳が太一を捕らえなおす。
 金色の髪が揺れる下に見えた赤色に、太一の平常心は揺らいでゆく。
 この男は。自覚がないとは本当に恐ろしい。
 「言わなくてもわかるなんて、思ってちゃ間違いだぜ。
  お前は言葉があんまりうまくないんだから、意識して伝えろよ。
  それとも、本当はそんなに好きじゃないのか?」
 「好きだよ。」
 即答だ。太一の胸はチクリと痛む。けれど、ヤマトは続ける。
 「…好きなんだけど。好きって…よく、わからなくて。」
 「この歳になって何言ってんだ。」
 ショックを隠すために冗談ぽくいったつもりだったのだが、
 うまく伝わらなかったらしい。
 愛しい親友はその瞳を怪訝そうに細めるとムッとして太一をにらんだ。
 だが太一にとってはそんな強がりさえ、いとおしくうつる。
 「俺は…俺にとって、友情ってのは、すごく大切な感情なんだ。
  空のことは好きだ。けど、恋愛ってのは友情の延長からそれるのか、
  それないのか、いまいちつかめなくて…。」
 「じゃぁなに?好きか好きじゃないかもわかんねぇのに付き合ったのか?」
 「そう言っちまうと…ちょっとアレだけど…」
 「でも、正しいんだろ?」
 そこまで追い詰めると、ヤマトはコクンとうなづいた。
 日本人のそれとは思えない金色の睫毛の向こうに見える青い瞳が、
 悲しげに揺れる。自己嫌悪と困惑の色だ。太一にはわかる。
 空のことでさえこんなに悲しい顔をするのに、もし自分が想いを
 告げてしまったらどうなるだろう。
 親友の、しかも男から好意を告げられなどしたら、ヤマトの蒼は
 今以上にずっと深い困惑に染まるだろう。
 俯いたままのヤマトは、遠慮がちに口を開く。
 「俺を好いてくれたことは、すごく嬉しいよ。どうしてこんな俺をって
  思うし。すごくありがたいことだと思ってる。だけど…空の望んでる
  ことがどんなことなのか、俺にはわからなくて……いや、わかっては
  いるけど、それをすることでどうなるのかとか、しなくちゃいけないのか
  とか…。」
 「"それ"って何?セックスのこと?」
 とまどいのせいかやたら文章が長くなってしまっていたヤマトが、
 太一の一言で一瞬にして固まった。
 こういう単語に耐性がないのだろう。そんなところも可愛いと思ってしまう。
 目を泳がせ、何か言おうとして口をぱくぱくさせている。
 さきほど以上に赤く染まった頬を、ペロリとたいらげたい衝動に太一はかられた。
 「…つーかさ、普通は、男だったらしたいと思わねぇ?健全な男子だったら
  彼女いたらやりたくなると思うぜ。触れたいとか、キスしたいとか、
  …それ以上のことしたいとか、思わねぇの?」
 「知るか!!」
 太一的には禁止ワードは伏せたつもりだったのだが、ヤマト的にはアウト
 だったらしい。ヤマトは恥ずかしさを不機嫌さに変換して、吐き捨てるように
 言うとそっぽを向いた。
 「そういうんじゃ、ない…空とは…そんな…」
 こんなことでそれだけ顔を真っ赤にする奴が、空じゃなくても女に欲情したり
 すんのか?と思いながらも、太一はそれを、空を大切に思うが故だと解釈する
 ことにした。
 もちろんここでヤマトをさらに追い詰め、なかば脅迫的に別れに追い込むことは
 今の太一にとっては容易なことだった。
 だがしかし、ヤマトを不幸にしたくないという、最後の理性がそれを妨げた。
 それは同時に、ヤマトに嫌われたくないというエゴイズムでもあったが、
 たとえエゴイズムだとしても、ヤマトのためという大義名分と行動上一致するの
 ならば、それは許されると思った。
 この均衡関係を守ることを、太一は最後の理性でもって選び取ろうとする。
 笑顔を作って、こう言った。
 「まぁ、今度デートするときにはさ、キスのひとつでもしてやれよ。それが
  空的には愛情の表現になるんだよ。安いもんだろ?それで空の気持ちを
  つなぎとめられるならさ。…その野球の試合、見に行くときにでもさ。」
 太一にとって最後の一言は自分への皮肉以外の何ものでもなかった。
 どうして、愛しい人が自分でない人間とキスするためのデートの小道具を、
 自分が届けなければならないのか。
 この、自分が届けたチケットによって、目の前の親友は好きかどうかもわから
 ない恋人とデートするキッカケを得ることになる。
 そう考えると、心の奥底がきしむように痛かった。
 心の灰色はもうほとんどすべてを覆い尽くしている。
 これ以上、ここにいると大変なことになる。
 ぎりぎりの理性で保っている自分の気持ちが。
 出たくてしょうがないのに押し込めている、自分の恋情が。
 ヤマトを困惑の渦に陥れる凶器が。
 暴れだしてしまうかもしれない。
 だからここを早く去らなくては。そう考えて太一はヤマトから視線をそらした。
 そらした直後にはみだしてしまった悲痛の表情に、ヤマトははたして
 気づいたのか気づかなかったのか。
 やっぱりこの夏もこのまま去るのだ。
 そう悟りかけた太一の横顔に、ヤマトは意外な言葉をかけた。
 「何言ってるんだよ。それ、お前と見に行こうと思ったんだよ。」
 「は?」
 太一は振り返った。蒼の瞳にとらえられる。
 キョトンとした顔で、ヤマトは太一を見ていた。
 その蒼に吸い込まれる。目が離せなくなる。
 こいつ今、何ていった?
 太一は驚きを隠さなかった。
 その表情に、ヤマトは首をかしげる。
 「そんなに驚くことないだろう?…ま、お前は野球よりサッカーかも
  しんないけどさ。こういうの、見に行くならお前だなと思って。」
 それはそうかもしれない。ヤマトのやっていることは、親友の範囲内だ。
 けれど、太一には、たったいま自分の恋情を押さえ込もうとしていた太一には、
 そのように受け取ることができなかった。
 ただの野球の試合だけれど。恋人より、自分を選んだ。
 ヤマトは、一緒にすごす相手に自分を選んでくれた。
 ただそれだけの、ほんの友情行為が、太一の心を揺さぶった。
 一種の感激といえる感情が、太一の心を走る。
 許せない。この、無知さ、無邪気さ、無防備さ。
 ヤマトの、自身への好意に対する無頓着さが、許せない。
 けれど同時に、その警戒心のなさに太一は感動したのだ。
 「太一?どうした?」
 無垢な瞳が太一の顔を覗き込む。
 しかし、太一は自分の中の感情の変化を抑えるのに必死だった。
 灰色が、次第に黒へ。
 どうしても手に入れたい。この、無知なる親友を。
 奪い去りたい。この腕で抱きこんで、暴れる両足を押さえ込んで。
 
 だって、お前が悪いんだからな。
 何もわかってないお前が、悪いんだ。

 そんな言い訳を、ヤマトの一言によって太一は手に入れた。
 そして小さく一歩、ヤマトに歩み寄る。
 「やっぱり、野球は嫌だったか?それとも他に用事が…えっ?」
 無駄口をたたくヤマトを、引き寄せることで黙らせた。
 ずっと欲しかった、のどから手が出るほど欲しかったぬくもりが、 
 その腕の中に、おさまる。あまりに突然のことに、ヤマトは声も
 出ないようだ。
 
 馬鹿だな。いまさら。そんなにとまどって。かわいそうなほど。
 
 太一は心でほくそ笑む。
 そして確信した。
 不幸にしてもかまわない。
 この親友の平穏より、欲しいものがある。

 「ヤマト」
 
 とまどい続けるヤマトの頬を両手でおさえこむ。
 こちらを向かせ、不安げな蒼の瞳を一瞬だけ見つめ、
 強引にその唇を重ね合わせた。



 おまえなんか不幸になればいい。
 多大な恐れと怯えをこめた震える瞳で、
 一生俺のことを見つめるがいい――…



 呆然としたヤマトを残し、太一は暗がりの玄関へ歩みを進め、
 ガチャリ、とわかりやすい音を立ててその扉を施錠する。

 夕暮れの赤は、いつのまにか闇に染まっていた。
 曖昧な色彩に別れを。
 もう、ハッキリとした黒の感情でしか、彼を愛せないのだから。
 

 



      END



 黒太一さんがヤマトに手を出すまでの心情をえんえんと追おう!
 …ていう試みでした。笑
 こういう、何も起きないんだけど、ただただ内面を描写していくような
 展開の仕方は、小説でしかできないなぁと思って、やりました。
 この先の展開は、どうぞご自由に妄想してください笑
 たぶん、みんな同じ妄想すると思いますが!